青の洞門は菊池寛で有名に成りましたね。
でも 実際は違うのですよ。たんに 徳の高いお坊さまが 長年月をかけて 人々の為に 最善な方法で村人達とトンネルを掘ったのですよ
青の洞門と言えば 恩讐のかなたにで 読まれてごぞんじでしょうが あの  憎しみの果ての 許しの涙のハッピーエンドのお話ですが  トンネル開通後はあのお坊さんが通行料を とったとか とらなかったとか  事実は小説より奇なり。
諸国遍歴の旅の途中ここに立ち寄った禅海和尚は、断崖絶壁に鎖のみで結ばれた難所で 通行人が命を落とすのを見て、ここにトンネルを掘り安全な道を作ろうと、托鉢勧進に よって掘削の資金を集め、石工たちを雇って「ノミと槌だけで30年かけて掘り抜いた」といわれている。
と言う 逸話が現地には古くからあり この逸話を元にして書かれたのが菊池寛の 『恩讐の彼方に「おんしゅうのかなたに」』であり、
「青の洞門」は この小説の中で命名されたものである。
その菊池寛の恩讐の彼方にが教科書に載るほど 知られるようになり まるでそれが事実のように思われているが
実際は作り話である お坊さんの名前は 了海と換えてはありますが。
その了海は 若い頃殺人を犯していて  殺した人の息子から仇討ちとして追われていて 最後はその仇討ち人が了海とともに青の洞門開通で 涙の感激にむせぶのであるが  是非 読んでない人はどうぞ 読んで下さい。
禅海 上人の作った青の洞門は今も残っています。
下流側の手掘りトンネル・奥の窓は最初に作られた明り取り用の窓といわれて います。
青の洞門(あおのどうもん)は、大分県中津市本耶馬渓町にある耶馬渓の山国川に面してそそり立つ競秀峰の裾にある洞門(隧道、トンネル)である。
大分県指定史跡。全長は約342メートル。
1763年(宝暦13年)4月完成といわれている。
そして 普通の自動車道路はその青の洞門よりも内側に新しく通されており、
洞門の方は遊歩道のように川沿いを貫いています。
禅海 上人が初期の頃寝泊まりしていた羅漢寺は険しい山の上にあります。 そこを 観光する時は  一般の方はスキー場にあるような感じのリフトが運行されていますので、それを利用するのがよいでしょう。
一応歩いて登る道もありますが、ハイヒールや普通の革靴、又タイトスカート 等での通行はお勧めできません。ズック靴かトレッキングシューズ、ジーンズ に長袖シャツ程度の装備は必要です。
実際 禅海 上人は恩讐のかなたの了海のように一度も人を殺しては いません。
禅海は若い頃 両親に死別したことから世の無常を感じ、僧になりました。
諸国 を行脚する内に、山国川に落ちて人が亡くなった所にちょうど行き会い、 頼まれて 念仏を上げた。 その時ここにトンネルを掘ることを思い立ちました。
■村人は小説とは違い 実際は もっと協力的であったようです。
村人たちは、この大事業が可能だと確信した時点でかなり協力的になった ようです。
禅海 上人は当初は自分で掘っていましたが、1〜2年もする内にその熱意 にほだされた村人たちが協力をはじめました。
そして、人手が増えてくる と禅海上人自身はどちらかというと作業には足手まといに なるので、托鉢 に回り、集まったお金で石工を雇って作業を進めさせました。
現在は、自動車を通過させるため(旧国道212号)、完成当時よりかなり変形しているが一部にノミの跡が残っている。地形の関係上車幅が狭く、信号を使った交通整理(片側交互通行)が行われている。
開通後、禅海が通行人から通行料を徴収したという話が伝わっており、この洞門は日本最古の有料道路とも言われている。
その禅海上人は上記でも触れた羅漢寺に埋葬されています。近年この禅海 上人が残した文書が発見され、色々分かったことなどもあるようです。
羅漢寺は山の上の寺です。歩いて登ろうとすると、かなり険しい道を歩くこ とになりますが(殆ど登山)、幸いにもリフトがあります。これはスキー場の リフトのような簡易なものですが、お陰で楽をすることができます。
羅漢寺は大化元年の開基。1350年の歴史のある古刹です。
開いたのはインド僧の法道で、金銅の観音仏一体を安置。その後山岳宗教の 拠点として多くの修行者たちがここで活動しました。1337年に円龕照覚禅師 が16羅漢,500羅漢像を安置して、羅漢寺という名前に改め臨済宗になります。 その後1600年に曹洞宗に変わって現在に至ります。
一度チャンスがありましたら 行って見たいですね。以上です。

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