時間の散歩(過去・現在)


人知れず錦沢に桜咲く 夕張鉄道

 夕張市は今ではメロンと映画の街ですが、かつては炭都として市内に多くの炭鉱を擁していました。それらの炭鉱で採炭された石炭は各炭鉱の専用鉄道等で集積され国鉄夕張線か夕張鉄道で工場や港湾に運ばれていました。その一方の雄である夕張鉄道は夕張と室蘭本線栗山駅経由で函館本線野幌駅とを結ぶ北炭子飼いの地方鉄道(私鉄)です。昭和50年に廃止されました。現在はバス会社として「夕鉄バス」を運行しています。
 夕張にはもうひとつ夕張川に沿った地区に大夕張鉄道が国鉄のちJR清水沢駅まで運行されていましたが、こちらは三菱資本で新鋭の採炭技術路と良質な炭層から採炭される高カロリー産業炭の輸送を堅実に行い、昭和62年まで存続しています。大夕張鉄道については三菱大夕張鉄道保存会のホームページへどうぞ。
 話は戻って、平成14年5月2,3日と三菱大夕張保存会会員のI氏が岡山から来道されるということで、会長以下私含め「あぶない4人組」と学生実業家のM君の6名で「無印」夕張鉄道跡を探索することになりました。「三菱大」夕張鉄道の方にもちゃんと行きました。
5月2日はI氏の歓迎会で、酒も抜け切らないまま夕張向け自動車で出発。晩翠付近から夕張鉄道の路盤だったところ(このあたりは畑になっている)に沿って会長と元沿線住民のI2氏が駅の細部位置を指示しておりました。やがて、栗山に入り、まず夕張川右岸の橋台、次に栗山駅の南で国鉄室蘭本線と立体交差していたところの築堤と橋台を見た後、角田の跨線橋に行きます。

   
角田跨線橋についている銘板です。 角田跨線橋からみた夕張鉄道の路盤跡です。まだはっきり判ります。向こうが野幌方向です。同じく角田跨線橋からみた夕張鉄道の路盤跡ですが、向こうは夕張方向です。

 角田から札幌夕張線を夕張に向かいます。「あそこの跨線橋が黄色いハンカチで武田鉄也が何回も引き返すところ」とか「継立駅舎はM社の倉庫として現役」だとか、「貯木場そばの新二岐駅舎も倉庫かなにかに使われて残っている」とか「クレーンの下を真っ直ぐ行くと新二岐炭鉱があった」とか会長がI氏に詳細に説明していました(私も参考になった)。やがて富野を越え夕張峠の麓の工事現場付近にクルマを止め錦沢の探索に入ります。富野からは石炭の歴史村まで夕張鉄道の路盤は自転車道になっていて現在は歴史村から千代田までしか走れなくなっていますが、3年ほど前までは全通しており私も一度全線走ったことがあります。錦沢付近は道路の付け替え工事のため夕張鉄道の線路跡も一部削り取られていましたが大半は無事でした。しかし、
   
第1隧道(もっとも野幌より)のポータルはふさがれています。中もかなり痛んでいるのでしょう。 路盤の脇に台座を発見しました。錦沢目指して歩く集団は、I氏+「あぶない4人組(-)」+学生実業家

 錦沢付近は夕張鉄道最大の難所で、当時のSLは非力だったのでスイッチバックで峠を越えていました。今のレッドベアだとスイッチバックはいらないでしょうね。 鉄道マニアにとっては「錦沢のスイッチバック」で有名でしたが一般の夕張鉄道沿線住民にとっては桜の名所です。 一方、われわれにとってはどちらも興味の対象ですが。
   
錦沢駅構内跡です。右手から登ってきた列車は手前まで出てきて止まり、ポイントを切り替えた後、加速して左の線路を登っていきます。 やっぱりこんなものを見つけてしまいます。杭に使われたレール。

かつて親子連れの憩いの場錦沢遊園地跡には碑が立っていました。

錦沢駅の駅名表示板の支柱と思われるものです。 錦沢スイッチバックはZ字に登って行きます。左の築堤がスイッチバック最後の地点で正面が錦沢駅跡です。左右に桜が見えます。錦沢駅構内の桜は綺麗でした。が、デジカメではこれ1枚のみ(T_T)

 と泣いていたら、I氏とI2氏が美しい桜の画像を送ってくださいました。m(_)m早速使わせていただきます。
錦沢駅跡構内の桜です。優雅な老人のような落ち着いた姿です   I氏提供 錦沢スイッチバック跡最上部の桜です。パステル画のような雰囲気です。   I2氏提供

 錦沢を過ぎて夕張方向に歩いていきますと、徐々に「鉄分」が濃くなってきました。

   
倒れかけた標識が出てきます。ほとんど腐食していません。 右側には石垣が積み上げてあります。石にコケが生えて年月を感じさせますキロポストが立っていました。錆で文字は読めません。
     
30km/h区間の標識が残っています。 左側に見えるのは土砂(雪崩?)防止柵でレールを組み合わせています。珍しいものを見つけました。マニアの本性発揮です。(ヤダヤダ)先にトンネルを見つけました第2隧道です。
   
取り敢えず中に入って行きます。 トンネルの壁面です。コンクリートではなくてレンガです。「黄色いハンカチ」のすぐ側で見つけた北炭?のレンガの建物です。

 夕張鉄道は大正15年夕張−栗山(国鉄室蘭本線)間引続き昭和5年栗山−野幌(国鉄函館本線)間が開通し、旅客と石炭や貨物の輸送を行っていました。函館本線との連接が野幌になったのは江別付近は泥炭地で路盤設置が困難だったからだそうです。また、栗山−野幌間は泥炭地の中でも地形のいい場所を何とか見つけて線路を敷いたようです。ということは沿線の農民にとっては泥炭地の中を馬車や水運を使って(有名な馬追運河を始め多くの運河があったようです)苦労して江別や栗山に運んでいたものが近くの駅に運べば良くなったわけで幌向原野南部の開拓に多大な貢献をしたはずです。一方、先に完成した夕張−栗山間は一部馬車軌道を転用して楽したようですが、錦沢付近での峠越えは火山灰土と急勾配のためかなりの難工事だったようです。営業開始後、夕張炭田華やかなりし頃は経営資金も潤沢で、昭和30年代は新型ディ−ゼルカーの投入や無料急行列車の運行等を行っていましたが、沿線の炭鉱の閉山と人口減少、道路整備によるモータリゼーションの発展により経営が悪化し昭和50年に廃止されました。
 夕張鉄道は夕張から札幌方面への短絡線として多くの人や貨物を運びました。代表的なものに石炭がありますが、木材、江別のレンガや幌向平野の農作物も運びました。栗山を始め沿線各地に残るレンガ建築は夕張鉄道で運ばれた江別煉瓦だと思っております。 やがて炭鉱の閉山とともに夕張鉄道は沿線の人と貨物の輸送をバスとトラックに託し消えて行きました。10mレール独特の音はもう聞くことはできません。あと15年どこかが助けて頑張っていたら札幌近郊の通勤鉄道として活躍したと思っていましたが、末期の親会社の惨状を知るにつけてバス会社として名前が残っただけでも幸せかもしれません。一方、夕張鉄道のDCのうちキハ252、253、301、302は海を越えて岡山県倉敷市の水島臨港鉄道で使用され、その後302を除く3両は岡山臨港鉄道で最後のご奉公をします。この頃、私は岡山芳泉高校(岡山市泉田)に通っており何度か通学で乗っていましたが、当時は雪原の中を雪を蹴散らせ、また満開の桜の中をスイッチバックを登って夕張目指して走った経歴を持つDCとは知りませんでした。岡山で生まれ育ち北海道に流れてそこに定住した私にとって北海道でデビューし岡山で勤務を終え保存されているDCと彼らが走っていた鉄路(跡)に対して特別な思いがあります。
 錦沢駅の桜はさすがに「桜の名所」と言われただけあって見事でした。そして、人知れず咲き誇っている姿は私に何か考えさせてくれます。
 最後に、おいしいおにぎりを作ってくださった会長の奥様ありがとうございます。石狩出てから南部に着くまで5時間かかったS様、ラッセルの中見ることできて良かったですね。そして遠路はるばる岡山からこられたI氏殿、お住まいが実家のそばということで大変奇遇ですが、これも何かの縁だと思いますので今後ともよろしくお願いいたします。また、北広島駅ではご馳走様でした。今後のご活躍をお祈り申し上げます。

平成14年5月3日

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